◇◇私がこの場所を終焉の地と決めた理由1 ◇◇40年前のでき事◇◇

 

 このロケーションを見たときに忘れることのない出来事がありました。

 

 私が23歳の時でしょうか、税務署の資産税担当として、相続税の調査を担当して

1年目だったと記憶しています。約40年前です。

 

 亡くなった方の経歴を聞く場面

 場所は、JR広島駅地区の猿猴橋の近く

 おばあちゃんが遠くを見る目で、ボロボロなきながら、カンカンを並べ、駅前の市場で魚を売っていた人。

 

・・・・ピカドンが落ちて、数日後、疎開していた村から戻ってきて、

やけどで皮膚が焼け爛れた姿の人が無数にいて、喉がかわくのか川に入って行き、水を飲み、満足げに、安心したように、そのまま、ぱたっと倒れて

少しずつ、川の水が満ちていき、水位が上昇すると、沢山の人が下流に流されていった。

 沢山の遺体が浮いていて、海へ海へと・・・無数の遺体が流されていく・・・。

 それを何もできず、ただじっと、川のたもとから眺めていたと・・・・。

 

 私は、下関市の出身で、広島に住んで1年目でした。

 数十年前に、この場所でそんな悲惨な出来事があり、事実、この人は、それをただ眺めていたと・・・衝撃でした。

 

 税理士も高齢で話が合うのか、半日はその話でしたが、衝撃で仕事を忘れ、何もいえませんでした。

 その後も、相続税の調査では、仕事にならないのでピカドンのことに触れないようにと先輩に言われ、そのように努めましたが、何度か同じような場面に遭遇しました。

 

 それから、約30年、初めてこの海を眺めた時、西方向なので、逆光でキラキラと輝いていて、あの時の話の遺体の魂が光っているような気がしました。

 

 その時、この土地を買おうと。

 残りの人生をこの土地とともに過ごしていこうと決めました。

 もう少しで、ここの土地を買って10年になります。

 手持ち資金の範囲内で土地を買い、建物の新築・改築をし、少しづつ手入れをしたものです。自分でできることは自分で、できないことは、予算との兼ね合いで、プロに頼みました。

 

 お店を持ちたいのなら、「街中の便利の良い所に店舗を借りる」それが普通の価値観です。誰もか起業するなら、その選択をするだろうと思います。金輪島なんて集客力ないから、意味が分からないとお思いでしょう。

 でも、定期船で10分の距離の宇品と金輪島で、土地の価格が50分の1程度に下がるのは、それは安すぎると思いました。

 

 コロナ禍で収入が激減し、家賃の支払や借入利息等が重しになって、店を畳んだという話しをよく聞きました。ここでは、わずかな固定資産税の支払いだけでいいので、生活費を切り詰めれば、赤字にはなりません。価値観とお店を持ちたいという本来の目的が違っているからだと思います。 

 

◇◇私がこの場所を終焉の地と決めた理由2 ◇◇鎮魂歌◇◇

 

  原爆で亡くなった人で、遺体の分かる人や名前の残っている人達は、ちゃんと供養されていると思います。

 数は分かりませんが、海に眠る人はどうですか。

 もう、骨も砕けて、砂になっているかと思います。あるいは、もう、影も形もないのかもしれません。

 想像ですが、身寄りのない、名前の分からない魂も沢山あるんじゃないかなと思います。名前も分からない、死んだのかも確認できない魂は、どのように鎮めるのかなと思います。 

 

 原爆ドームと原爆慰霊碑は、原爆死没者の名前、名簿をまつっています。仏壇の戒名は、死んだ後の名前ですから、同じだと思います。 

 では、原爆で亡くなった人のお墓、遺骨は、どこにあるのでしょうか。

 そんなことを考えていただくのも、大切なことです。

 

 原爆でなくなった人の内の何割かは、広島湾、金輪島の海に眠っていると私は思います。広島の何万もの人が一度に亡くなった悲劇ですから、お墓参りもして欲しいと思います。

 

  私は霊感が強い方ではなく、鈍感な方です。だから何も感じないですが、この海を見ると、不思議と心が落ち着きます。守られているような、一人ではない安心感があります。一度来ると帰りたくなくなります。

 

 でも、冬、異常な寒さの日には、海から湯気、白い煙が上がります。海水温が気温より高いために起こる現象でしょう。まるで地獄絵のような表情をみせることもあります。そんな中、幽霊船に似た船も見ました。

 

 そんな日には、成仏していない魂もあるのかなと思いますし、脳梗塞になったのも、この場所で、入院当初は、そんな夢にうなされ続けました。

 

 退院して、再度、ここに泊まった日、怖い夢を見ずに、穏やかに眠れたので、「もう、いいんだ」と、よく分からないけど、安心して、勝手に許してくれたとほっとしたものです。

 

 金輪島のこの場所は、広島湾を東の端から西方向に見渡すロケーションです。

 地図を見ると分かると思います。

 

 真正面に神の島、宮島があり、真反対の当敷地の山裾には、原爆慰霊碑があります。私には、「ここでしょう」と聞こえた気がしました。

 

 この場所から鎮魂歌を歌い続けようと思いました。亡くなった魂を鎮める歌を歌い続けたいと思いました。いろいろな表情を見せる金輪島の海に向かい、歌い続けたいと思いました。ただ、神妙な厳かな姿勢で、心を込めて祈りたいと。

 

 ミュージシャンは、「集客力が・・・」「ギャラは最低〇〇万円・・・」「音響などのクオリティがね・・・」「市や県のイベントだと客が入らなくても、高額の報酬が保障されるけれどね・・・」コロナ禍でもなんか面倒です。最もな意見です。当然のこととは、分かっていますし、生きていくための手段だから、パフォーマンスに過ぎないと。それはわかっていますが、正直、余り、関わりたくないと思いました。

 

 お店をはじめた頃、テレビの取材があって、大学卒業から2~3年の若い子達の企画ライブの様子を撮っていたのです。

 休憩時間に、女子アナウンサーが「店からすぐのところに、原爆慰霊碑があるらしいのよ。みんなでお参りしない?」って声かけると、「何それ、やらせじゃぁないの」みたいな雰囲気で誰ひとり立ち上がらなかった。

 アナウンサーも空気を読んで「こめん。ごめん。そんな気分じゃぁなかった。忘れて」っていったけれど、広島の若者は、不思議なくらい冷めていたのを覚えています。

 アナウンサーは、若者が慰霊碑に参る姿の画が欲しかったんだと思うし、それを提案したのは自分だったと記憶しています。でも、誘い方も自然な感じでしたから、私には「なぜ行きたくないのか」「あの反応は何なのか」理由が全く分かりませんでした。

 

 ただ、似たような反応は、音楽する人には共通して感じられました。少なくとも、ミュージシヤンで原爆慰霊碑にお参りした人は記憶にありませんし、そもそも建物の外に出ようとする人は少なくて、景色とかも興味ないようです。逆に、眩しいからカーテンを閉めてという人は多いですし、基本的に夜の繁華街しか興味ないけれと、美味しい話なら乗りおくれないようにと、それが本音のようです。

 それが普通の価値観で私が変わっているんだと、多数決なら、間違いなく決まってしまいます。

 広島で、他人の音楽を応援する気持ちは薄れ、「音楽に限らず、まぁ、この場所が気に入ってくれる人をそのままの姿で受け入れよう」と、それが正直な気持ちです。

 

 さださんが広島の原爆の日に、長崎から、無料の野外ライブを続けていました。大変だったと思います。平和を願う思いは、たくさんの人の心に届いたと思います。

 でも、それでも大半の日本人は、すでに原爆は「過去の暗い出来事で、良く知らないし、興味もない」けど、全世界から人が集まるなら、ビジネスチャンスじゃぁない」という意識だと思います。

 

 その時は、「なんで?」「ミュージシャンの意識低すぎるなぁ」と思ったけれど、よくよく考えると、広島を訪問する人は、やたら外国人と修学旅行生が多いです。関西の友人は「広島は、中学の修学旅行で行ったけど、もう一度行ってみたいとは思わない」というのが主流の反応らしいです。

 

 真の課題は、この現実をどう受け止めるかだと思います。広島の人、日本人が本当はどう思っているかだと思います。

 

 広島と長崎に過去に原爆が落とされ、多くの市民が亡くなったという事実は、忘れ去られ、すでに陳腐化して、冷めた目で見ている。けれど、外国人や修学旅行生が来てくれるのはありがたいので、ビジネスチャンスとして、観光都市を目指しましょう。それが本音だとしたら、何か打算的で悲しくなります。本当のところは、私には分かりません。でも、広島の人達の気性からして、話をしてみた実感として、本音では、そう思っている人はかなり多い気がしてなりません。

 

 死者の魂なら、何も求めませんし、多分、数万人以上は、眠っていると思います。ただ、よく分からないけれど、鎮魂歌を歌っていたいと。 

 その思いは、脳梗塞をして、見た夢が何かを物語っているようで、ギターが弾けなくなって、一層強くなりました。

 どういう形でも、どんな音楽でもいいから、下手でいいから、心を込めて、歌い続けていたいと思います。そして、この場所を綺麗だと思えるように、魂を鎮めるような人の心の癒しとなるような場所にしたいと思っています。

 

 東北地方の地震、津波の時も、未だにご遺体の不明な方が、私の記憶では3~4000人ですか。随分といるらしい。何かしたいなぁと思います。海は一つ、つながっているから。

 

 約3年前に、脳梗塞を患い、左手が動かないので、ギターが弾けません。

 今はリハビリを頑張っています。もう一度、ギターを弾き、鎮魂歌を歌えるようにと、それが今の目標です。最も、ハードルの高い目標です。

 

◇◇私がこの場所を終焉の地と決めた理由3 ◇◇ガラス片の平和モニュメント◇◇

  

 それと、この浜辺で、もう一つ、夢があります。 

 ここの海で拾ったガラス片には特別な意味がある気がするのです。

 シーグラスというそうです。

 

 波に洗われて角が丸くなったガラスの破片が、タイルのように手作りで色々なものを作る材料として、きれいで、ネットで売られています。一握りで1000円くらいです。色が珍しいと高いようです。

 ここの島の浜にも、満潮になれば姿を一新し、ガラス片が現れます。

 

 私の想像です。

 ガラス製品が生活に普及し、大量に作られ始めたのが、ほぼ、明治から昭和の頃から。波に洗われ、角が丸くなるのに要した月日は、今から数十年。

 その間と言えば、思ったより短い期間です。明治頃は、とても貴重品で川や海に捨てる頻度は低い。

 その間出来事で、沢山のガラスが割れ、飛び散り、広島の海や川に大量に破片が流れこんだのは、戦争、それも、原爆の時が最も可能性が高いと。

 

 だから、金輪島に打ちあがるガラス片の何割か、かなり高い割合で、原爆の遺品と想像できます。とても尊い、貴重なものです。

 

 想像だけです。拾ったものを見てみると、やけにぶ厚いものが多く、瓶らしきものだと分かりますが、いつ、どこで捨てられたものか見当は付きません。相当な年月を経ていることが分かります。海の底は、どの程度、海流の影響を受けるのか等、専門家の意見を知りたいと思います。

 

 広島に来たら、拾って欲しいです。霊感の強い人は何かを感じるかもしれません。パワーを感じる人もいるかと思います。

 

 ガラス片は、何十年に一度位の確率、もっと低い確率で地表に現れ、また、海の底に戻るものではないかと思います。そこでは、原爆で亡くなった人の魂と同居するものだと感じます。

 

 潮の満ち引きや波なんかを見ていると、海が呼吸していると感じることがあります。今は何もかもメカニズムは分かっているとしても、人の力の及ばないところで、自然は、じっと見ていると。人間の都合で変えてきた自然を、元に戻そうと、そんな力が働いていると、漠然と、そんなことを考えます。

 

 このガラス片を拾い集め、「平和を祈るモニュメント」や「ガラス片を使った平和を祈る灯篭」など何かを作りたいと考えています。出来るだけ、自然に近い形で、死ぬまでに仕上げます。

 人はいつか死にますが、モノは大切に扱えば、いつまでも生き残り、何かを伝えてくれます。

 壮大な計画で、デザインとか大きさとかは今からです。とりあえず、紙粘土にでも貼りつけてみて、仕上がりのイメージをあたためながら、材料集めからはじめようとおもいます。

 陶芸も視野に入れて勉強したいと思います。

 

 脳梗塞のリハビリを終えた時、暇になるので、死ぬまでの間に、何かしっかりした物を作り上げたいと思います。敷地の海の見えるところに据えたいと思います。

 

 そして、いつか、私が死んだときには、金輪島の海に散骨して欲しいと思います。

私の遺言です。私が生まれたのは、下関の高杉晋作終焉の地のすぐ近くです。死ぬのは、この海がいいです。

 死んだら漠然と父母と同じ故郷に眠るイメージは持っていましたが、ここを見つけてから、私の散り場所は、この海にお願いします。

  

 できれば、後継者を探し、この場所が末永く、何かしら、皆さんの憩いの場所になればと思います。

  

 今は、それが私の希望であり、夢です。

 

                   

                           2013.11.29

 

    

遥かようこそ 広島の街へ 平和を祈り続ける金輪島へようこそ

 

      

その昔この街にピカドンが落ちて真っ黒なキノコ雲空高くそびえ立った

     

何十年も経てば 記憶は薄れ 歴史の教科書の中閉じ込められるかな     

 でもね 君達の時代がいつの日にも 心豊かで平和であればそれでいい

    

その昔僕の親父は お国のために その命捧げると 特攻隊を志願したらしい

どこかの国で起こる自爆テロと どこが違っているか 哀しいけれど僕には分からない             

でもね この国が今豊かで平和なのは 間違いなく親父達のおかげです ありがとう

 

その昔この島に体中火傷を負った人々が運ばれ 今も安らかに眠り続ける

多くを語らなくても大切なこと みんなが感じてくれたら 僕はそれでいいと思うから             

だから君達も平和を願う想い 命のともしび絶やさないでください

遥かようこそ広島の街へ 平和を祈り続ける金輪島へようこそ

海ほたる                                

                                                                         H25.9.3 

 

こんなに変わり果てた 郷の町にも  

さな命がづいている   

そっと息をひそめて 命のぬくもり感じたら   

あなたの声が聞こえた気がした

 

 暑すぎた そして誰もいなくなった浜辺に

 海ホタルの光だけ  ゆらゆら揺れている

 

こんなに人はもろく 無力だけれど

愛すべき人達 今 何ができるだろう

 そっとそのひとみ閉じて 祈りを捧げるのなら 

幾千ものホタル その勇気たたえたい

 

 暑すぎた  そして誰もいなくなった浜辺に

  海ほたるの光だけ  ゆらゆら揺れている

 

    そっとそのひとみ閉じて 祈りを捧げるのなら     

 幾千ものホタル その命偲びたい

 

 暑すぎた夏 そして誰もいなくなった浜辺に

  海ほたるの光だけ  ゆらゆら揺れている

   レクイエム

母への鎮魂歌                   

                                                      H24.11.18

 

 

あなたが天国に召されたのは 海が見えるお気に入りの場所だった

埋め尽くす白い花の道  あなたの愛した人達の涙

あなたの魂 鎮めて静かに眠れ            

子供のような母へのレクイエム

 

あなたが天国に召された時  僕は最後まで泣かなかったんだ

 痛みや苦しみから解き放たれ 眠る様に平和な笑顔に安心したから

 

あなたの魂 鎮めて静かに眠れ        

私のゆりかご 母へのレクイエム

 

あなたが天国に召された後も 父は「かあさんは?かあさんは?」ってね

何度も何度も聞くんだ

葬式の前の日には散髪に行ってね ちゃんとお別れした筈なんだけど

あなたの魂 鎮めて 静かに 眠れ          

皆に愛された 母へのレクイエム

 

あなたの魂 鎮めて 静かに 眠れ           

コスモスのような 母へのレクイエム

原爆慰霊碑

敷地の直ぐ山側にある原爆慰霊碑です。

原爆投下の際、この島に運ばれて手当を受け、そのまま亡くなった方約500人の犠牲者を悼み、建立されたもので、度々マスコミでも紹介されています。

このほか、島内には、当時の防空壕や弾薬庫跡がそのままで点在しています。 

 

金輪島の地理

 広島港の東方約1kmに位置し、面積約1km2 周囲5.3km。

広島市内に一番近い広島湾に浮かぶ芸予諸島の島です。人口は島民約30人。

 

 

金輪島の歴史

1749年より、京橋町の平野屋が藩の奨励事業として金輪島にハゼノキを植え、1760年に製蝋(ろうそくの製造)を始めましたが、原木不足で1770年に事業を中止しました。この約20年間を除くと、いわし網漁の漁師小屋があった程度の無人島でした。

1890年代に入り、島の東側に旧陸軍の金輪島工場(造船施設)建設され、島の中央山頂に照空灯陣地が置かれるなど戦前は軍の島に変わりました。戦後、軍の造船施設が民間に払い下げられ、現在の「新来島宇品どっく」となったほか、北側と西側に民家が点在する以外は、手付かずの自然がそのまま残り、野生の猪や狸も住む島です。

 

島内環境

広島市内南部から最短で30分、船便1日11往復と比較的アクセスはよく、市内から意外と近い割に、無人島だった時期が長いので、純粋な田舎感の漂う空間です。島特有の不便さはありますが、電気・上水道等の基本サービスは整備され、庶民感覚の別荘気分を味わえる環境です。

また、砂浜は、他の人はほとんど来ないので、まあプライベートビーチって感じです。

周囲の民家との距離も十分で、障害物もありますので、ギターの生音程度なら夜中でも騒音等の心配はありません。